先週から今週にかけて東京の実家で過ごした。空き家になって8カ月。ガスは使えないけれど、電気と水道はまだ生きている。押し入れを開けると布団や枕もそのままだった。
実家の売却が決まり、来月には家の整理が始まる。自分に関係する物を確認するのが上京の目的だった。
子供の頃の記憶を呼び覚ますものを持ち帰り、手元に置きたいと思った。家具や電化製品など、かさばるモノは眼中にない。
家族のアルバムを1カ所に集めて並べた。古い順にページをめくる。母の少女時代の写真があった。戦後間もない頃に撮った若々しい両親の写真もある。
そのうち兄が登場し、すこし遅れて自分もアルバムに加わった。父がカメラ好きだったおかげで写真はそこそこ残っていた。
昭和の匂いがモノクロの写真から立ち昇る。着ている服も家の中の様子も古めかしい。父も母も若かった。
1枚の写真に目が留まった。どこかの公園だろうか、背後に噴水が見える。母と兄と3歳くらいの自分が写っていた。母に両肩を押さえられ、怒った目でカメラをにらんでいる。要求が通らずに拗ねていたのかもしれない。
写真を1枚1枚眺めていると、鼻の奥がツンとするような切ない気持ちになってきた。これではイカンと気持ちを切り替えて仕事に取りかかる。必要な写真をiPhoneでスキャンして持ち帰るのだ。
Scanner Proというアプリを使ってみた。きれいに取り込めない。iPadのカメラで写真をそのまま撮影すると鮮明に撮れた。かくて、アルバムのデジタル化はiPadが担うことに。
何枚か撮るとコツが掴めてきた。中学生になると写真も少なくなり、取り込む作業は思いのほか早く終わった。
アルバムのほとんどは記念写真だった。どこかに出かけたときや誰かと会ったときの記録としての写真。父はカメラが好きだったけれど、作品志向ではなかった。妻や子供のポートレートを撮るという発想は最後まで湧かなかった。
東京を発つ日、今日で見納めかもしれないと思って実家の写真を撮った。駅に向かって歩きながら、今回の上京では母の写真を1枚も撮っていないことに思い至った。
母のポートレートを撮る最後の機会を逃してしまった。そんな予感がした。結局、自分も親父とおんなじだと思った。