猛暑と鳥枯れで野鳥撮影からしばらく遠ざかっていた。再開したのは先週の日曜日。シギチを求めて朝の水田地帯を歩いた。本命にはフラれたけれど、セッカをたくさん撮ることができた。
これを機に衰えていた野鳥熱が息を吹き返した。早朝ならそれほど暑くないし、朝日を浴びて緑のフィールドを歩くのは気持ちがよい。
今週に入ると、海で野鳥を撮るようになった。近所の浜辺にシロチドリの群れを見つけたのだ。全部で5羽の群れだった。
5月頃、その浜辺で営巣中と思われるシロチドリを見かけた。その雛たちが無事に成長した姿かもしれない。そう考えると気持ちが和んだ。
海辺で見かけるシギ類は警戒心がつよい。人を見ると飛び去ることが多いのだが、シロチドリはあまり人を恐れない。
それでも、一定の距離を超えるとソワソワして移動を始める。鳥たちの反応を見ながら慎重に距離をはかる必要があった。
海辺の鳥見散歩ではOM-1とパナライカの100-400mmを持ち出した。OM-1を使えば波打ち際を歩くシロチドリをローポジションで撮影できる。ライブビューのAFが遅いNikon D500では難しかったショットが可能になるはずだった。
しかし、波打ち際で撮影するチャンスがめぐってこない。砂浜をすこし上がったところ、漂着したゴミが溜まっているエリアに群れていることが多い。障害物があるほうが落ち着くのか。
かくてシロチドリの撮影は目障りなゴミとの闘いとなった。シロチドリの位置に応じてゴミが写らない場所へ移動する。それをしゃがんだ姿勢で行う。
移動を繰り返すと腿がパンパンになった。昔、ウサギ跳びをしたときの感覚を思いだす。無理な姿勢を強いられて腰も痛くなってきた。
海辺の鳥見散歩はいつしか体育会のスパルタ朝練と化していく。それでも、ゴミの障壁をかいくぐってイメージをカタチにできた喜びは何事にも代えがたい。
今朝も浜辺へ向かった。干潮がピークを迎える時間帯だった。念願だった波打ち際でのローポジション撮影ができるかもしれない。
いつも群れているエリアにシロチドリの姿はなかった。干潮なので移動したのか。くまなく周辺を探した。
どこにもいなかった。群れは姿を消していた。一時的にいなくなっただけでまた戻ってくるのか。それとも、この場所に見切りをつけて行ってしまったのか。
心はシロチドリ、カムバックと悲痛な叫びをあげ、朝練から解放される体は安堵の吐息をついていた。