今年の冬は暖冬だという。たしかに昼間は暖かい。手間のかかる石油ファンヒーターではなく、エアコンの暖房で済ますことも多くなった。
とはいえ、朝はギンギンに冷える。起床時間の7時はまだ薄暗い。体は金縛りにあったように暖かい布団から出ようとしない。
そんなとき、頭のなかでおまじないの言葉をつぶやく。死ねばいくらでも眠れる。この一言で脳に覚醒のスイッチが入り、金縛りを解かれた手足はもぞもぞと動き出す。
このおまじない、若いときなら効果は薄かっただろう。前期高齢者に分類され、死を意識する年齢となってはじめて効力を持つようになった。
享年82歳。死因は老衰。これが頭に描いた大往生のシナリオだ。これより長生きすると金が持たないし、死ぬときは老衰で穏やかに逝きたい。
もちろん、人生は思惑どおりに運ばない。それでも、残りの人生はあと15年プラスアルファというのは妥当な線だろう。
老後の人生について考えるとき、頭に浮かぶ本がある。メイ・サートンの「夢見つつ深く植えよ」だ。この本で彼女は次のように述べている。
「55歳をすぎると死の予覚のために、われわれのもっとも内奥の生活の質が変わる。突如として時間は圧縮される。生きること自体がかつてなかったほど貴重になる・・・(中略)・・・浪費をつつしみ、自分にとって重要なことと重要でないことを鋭敏に自覚しなくてはならなくなる」(「夢見つつ深く植えよ」武田尚子訳/みすず書房)
50代前半でこの本と出会った。老いの予兆を感じていた当時の自分にとって、心に刺さる内容だった。死という人生のゴールに向けた心の身支度を促す本だった。
残り時間が短くなっていくなか、限りあるエネルギーを注ぐ対象を見極めて、余分なものを削ぎ落としていく。自分にとって必要なものだけを残したシンプルな環境に身を置けば、ひそやかに充足した日々を送れそうな気がした。
それから10数年。今は鹿児島で野鳥撮影に明け暮れる日々を送っている。乏しい年金暮らしで贅沢はできないけれど、時間だけはたくさんある。その時間を生かすも殺すも自分しだいだ。
今年は、OM-1のプロキャプチャーで野鳥が飛び立つ瞬間を撮ってみたい。山深い林道を歩いて越冬しているコマドリとも出会いたい。ヤマセミ、キクイタダキ、ヤイロチョウ、コシジロヤマドリ――欠けているジグソーパズルのピースをひとつひとつ埋めていきたい。
朝寒いからとダラダラ寝ているわけにはいかない。起きて抗え。残された人生の賞味期間は長くはないのだから。