片隅のユートピア

野鳥を愛するシングルシニアの雑記帳

「終わりの感覚」を読む

人間の脳は自分に都合よく過去の記憶を再構築する。そんな話をどこかで読んだ覚えがある。忘れずにいたのは、自分にも思い当たるフシがあったからだろう。

たとえば、母と昔話をすると子供時代の記憶と一致しないことがよくあった。人は皆それぞれのフィクション(物語)を紡いで生きている。何が事実かは重要ではなく、それぞれが持つ記憶がその人間にとっての「真実」なのだろう。

ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は、この「真実」が脅かされて人生の基盤が揺らぐ男を描いた小説だ。

60代なかばのトニーは穏やかで満ち足りたリタイア生活を送っている。離婚した元妻とは今でも仲がよく、すでに結婚した娘もいる。

知らない弁護士からトニーに手紙が届く。昔の恋人ベロニカの母親が日記と500ポンドを彼に遺したという。日記は学生時代の友人エイドリアンのもので、トニーと別れたベロニカはエイドリアンの恋人になっていた。そのエイドリアンは若くして自殺を遂げている。

小説の前半は学生時代の回想に充てられている。後半は弁護士からのミステリアスな手紙で幕を開ける。ベロニカの母親が遺したものを契機に、トニーは封印していた自身の過去と向き合わざるを得なくなる。その過程で不都合な事実が明らかになっていく。

ミステリーの要素が盛り込まれており、予測のつかない展開に引き込まれる。物語のラストでは衝撃的な事実が明かされる。

同じリタイア世代の男が主人公なのですんなり感情移入ができた。時間と記憶という小説のテーマも心に響くものだった。

読みながら何度も本を置き、過去に思いを馳せた。自分が描く自画像はどこまで実態に即したものなのか。ベロニカは「あなたはほんとにわかってない」とトニーに告げる。読んでいて自分に向けられたセリフのような気がした。

この小説で特に印象に残る場面がある。海水が川をさかのぼる潮津波を見たことを主人公が回想するシーンだ。過去の記憶が時間を逆流し、現在の自分に向かって押し寄せてくる。そんなイメージを喚起する象徴的なシーンだった。

ジュリアン・バーンズを読むのは初めてだった。ウイットに富んで洗練された文章が心地よい。翻訳もこなれていて読みやすかった。

久々に小説の醍醐味を満喫できる作品と出会った。読み返すたびに新たな発見もありそう。図書館から借りた本なので、蔵書用に古本を買うのもアリかなと思った。

極楽読書にはリクライニングチェアと老眼鏡が欠かせない