こんなに切ない気持ちになった小説は何年ぶりだろう。ひょっとしたら、高校生のとき以来かもしれない。
読み終えた本を手に取ってそう思った。毎晩70~80ページ、ハムの輪切りを賞味するようにじっくり噛みしめながら読んできた。小説のタイトルは「空、はてしない青」。フランスの作家、メリッサ・ダ・コスタのデビュー作だ。
主人公のエミルは26歳。若年性アルツハイマーと診断され、余命2年を宣告される。キャンピングカーで人生最後の旅に出ることを決めたエミルは、掲示板で旅のパートナーを募集する。彼の呼びかけに応じたのがジョアンヌだった。高速のサービスエリアで待ち合わせた2人は、ピレネー山脈へ向けて共に旅立つ。
「空、はてしない青」は一級品のロードノベルだ。キャンピングカーでのエミルとジョアンヌの旅の日常を共有しながら、読者は2人と連れだってフランス南部を移動していく。旅の途中で出会う人々。滞在した土地で目にする光景。自然の描写が繊細で美しい。
余命宣告をきっかけに始めた人生最後の旅。この旅を通じて、エミルは自分の過去と向き合うことになる。別れた恋人や友人、家族とのさまざまな思い出が脳裏に去来する。
旅には覚醒作用があるのだろう。人や風物との出会いが刺激となり、それまで思い至らなかった発見を促す。エミルが味わうのは苦い悔恨だけではない。新たな気づきが自己嫌悪からの解放をもたらす。
一方、喪失感に苛まれるジョアンヌは、エミルと旅をすることで自分自身を回復させていく。人生の最後を飾るエミルの旅は、ジョアンヌの魂を再生させる旅でもある。2つの旅路はキャンピングカーの両輪のように緊密に合わさり、物語を進展させていく。
旅は出会いに満ちている。2人はさまざまな人間と心を通わせる。エミルの境遇を知った相手は、救いの手を差し伸べようとする。
作者がこの小説で書きたかったのは、人間同士の絆なのかもしれない。エミルの進行する病が物語に暗い影を落とさずにすんだのは、こうした人々との交流ゆえだろう。
とはいえ、この小説における最大の功労者はジョアンヌだ。この作品の魅力は彼女に負うところが大きい。
だぶだぶの黒い服に身を包み、大きな帽子で顔を隠した29歳の女性。異様な装いの女が旅のパートナーであることを知り、エミルはとまどいを覚える。口数が少なく、自分について多くを語ろうとしない。どこか謎めいた雰囲気。
しかし、彼女はエミルと交わした約束を果たすために全力を尽くす。その姿はひたむきで揺るぎない。強靱かつ繊細、頑固で誠実、深い包容力。そんなイブシ銀のようなキャラにエミルは魅了される。ジョアンヌは、自然の背後に広がる精神世界にエミルを導いていく。
2人が旅をするピレネー山脈の麓には、不治の病を治すことで知られる「ルルドの泉」がある。しかし、この小説では奇跡は起きない。かわりに、物語の最後に嬉しいサプライズが待っている。
「空、はてしない青」は、2026年の本屋大賞「翻訳小説部門」の1位に選ばれた。外国の小説であることを忘れるほど、こなれて読みやすい訳文だった。すばらしい翻訳が今回の受賞に寄与したことは間違いない。
メリッサ・ダ・コスタには、同じ訳者による別の作品もある。自分が読みたいのはジョアンヌのその後の人生を描いた作品だ。この1作で終わらせるのはもったいない。そう思えるほど、魅力的なヒロインだった。
この小説には名言が多く引用されている。読みながら「時よ止まれ、お前は美しい」という「ファウスト」のセリフを思い浮かべていた