先週、母に会うために上京した。母は東京の老人ホームに入居している。兄の話では認知症が進んでいるらしい。心不全の症状も見られるという。この4月で94歳。元気なうちに会っておきたいと思った。
鹿児島に来てから何度か上京しているが、今回は勝手が違った。ひとつは航空会社。これまではLCCのジェットスターを使っていたが、今回はソラシドエアだ。時間を有効に使えるフライトスケジュール。成田が羽田になることで都心へのアクセスも良くなった。
上京時に鹿児島空港へマイカーで行くのも初めてだった。1泊2日の日程なので駐車料金は安く済みそうだ。東京に行く日は激しい雨。マイカーにして正解だった。
飛行機が羽田に着くと雨は止んでいた。最寄り駅で兄夫婦と落ち合い、母のいる施設へ向かう。雨がまた降ってきた。
2年半ぶりに会う母は老いて縮んでいた。それでも、マスクをしている爺さんが自分の息子であることをすぐに分かってくれた。正直、ホッとする。
母は耳も遠くなっていた。これも認知症が進んだ原因かもしれない。本人はいろいろしゃべるのだが、話の内容がよく分からない。母との会話に馴れているのか、兄夫婦はうまく調子を合わせている。
食事の献立表や入居者向けのアクティビティの一覧を見せてもらった。食事は種類が多くてどれも旨そうだ。アクティビティも多岐にわたっている。介護や医療の体制も整っているらしい。
施設のスタッフが夕食を知らせに来た。ダイニングルームの前で車椅子の母と別れる。明日も会いに来ると伝えると笑顔を見せてくれた。
これまでの上京との一番の違い。それは、実家に泊まれないことだった。実家は解体されて更地となり、すでに売却されていた。
そこで安宿を探すことにした。白羽の矢が立ったのは「1980円ホテル」。最近泊まった友人も「コスパ最高で超オススメ」と太鼓判を押していた。
安いので人気があるのだろう。予約が取りづらい。1カ月以上前に予約しようとしたら、すでに満室だった。諦めて鍵付き個室のネットカフェにしたのだが、そのあとキャンセルが出たのか、間際になって予約することができた(宿泊料は2千円)。
最寄り駅は東京メトロ日比谷線の入谷なのだが、山手線の鶯谷から歩くことにした。これが大きな間違いだった。
夜で暗い。雨も降っている。兄夫婦と夕食をとり、日本酒を飲んで少し酔っていた。悪条件が重なるなか、Googleマップのナビを頼りに歩きはじめる。
iPhoneの画面が暗くてよく見えない。表示と音声のレスポンスも悪い。近くまで来ていることは分かるのだが、いくら歩いても辿り着けない。
雨の中を歩き続けたせいで、靴はぐちょぐちょに濡れていた。バッテリーの残量がわずかであることをiPhoneが知らせている。ホテルに電話して場所を聞こうとしたら、かけている途中でバッテリーが切れた。
絶体絶命のピンチだった。明かりを見たら近づき、人がいたら声をかけた。コンビニ、飲み屋、停車中のタクシー。1980円ホテルを知っている者は誰もいなかった。
大通りを歩いていると、入谷駅の表示が見えた。頼れる助っ人の登場だ。これで、本来のスタートラインから一歩を踏み出せる。
1980円ホテルの場所はGoogleマップで確認済みだった。そのときのイメージを入谷駅を起点にして再現させる。たしか大通りから1本入った道に面していた。入谷駅から徒歩5分くらいか。
文鎮と化したiPhoneに代わって、脳内のナビに導かれて歩いていく。ほどなく、雨にけむる前方に1980円ホテルの看板が見えてきた。安堵感で体中の力が抜けていった。
イヤホン越しに客室乗務員のアナウンスが聞こえてくる。鹿児島空港への着陸に向けて飛行機は降下を始めるという。眼下の海原を眺めながら、東京で過ごした2日間を振り返っていた。
泊まったホテルは値段のわりに快適だった。午前中は老人ホームの母を訪ねた。すこし眠そうだったが、近くから大きな声で話すとこちらの言うことを理解してくれた。
東京の実家はもう無いけれど、売却したお金で母は立派な施設に入居できた。それを確認できただけでも行って良かったと思う。
飛行機の窓から桜島が見えてきた。その雄姿は、オマエが帰る場所は東京ではなく鹿児島なのだよと告げていた。
