片隅のユートピア

野鳥を愛するシングルシニアの雑記帳

クルマに狂気が宿るとき

その日は朝から厚い雲が垂れ込めていた。野鳥を撮りに出かけたもののパッとしない。あきらめて早めに帰途についた。家では酒を飲まないはずなのに、なぜか梅酒が飲みたくなってコンビニで買う。

家に着き、いつものように玄関前にバックで停めようとした。駐車スペースは道路から少し高くなっている。アクセルを踏んだ直後にブレーキを踏む必要があった。

一連の手順は体が覚えている。この日もアクセルを踏んでからブレーキを踏んだはずだった。

背後でガラスが割れる大きな音がした。車から下りてガラスが砕けた玄関の引き戸を呆然と眺める。

衝突のショックで引き戸は大きく歪んでいた。車のバックドアには縦長の大きなへこみができている。

目を覆いたくなる光景だった。時計の針を巻き戻したいと思った。ブレーキとアクセルを踏み間違えるなんて。

軽トラが家の前で停まった。隣家の人だった。こちらの敷地にせり出している庭の木を明日切ってくれるという。

玄関を指し示して状況を説明した。引き戸を修理できる業者について尋ねると、知り合いの業者に電話してくれた。明日の午前中に来てくれるという。まさに地獄で仏に会った気分だった。

鍵を開けても玄関の戸は動かない。割れ残ったガラスを取り除くと、通り抜けられそうな空間が生まれた。身をかがめて何とか家に潜り込む。

梅酒を買ったのは正解だった。とりあえず何か食べて酒を飲む。それしか思い浮かばなかった。ショッキングな老いの現実を突きつけられて、心が打ちひしがれていた。

翌朝、早く起きてガラスの後かたづけをした。一晩寝て気持ちはだいぶ落ち着いていた。車をぶつけたのが自宅の玄関扉でよかったとしみじみ思った。人を傷つけたりしていたら悔やんでも悔やみきれない。

ガラス店の人が修理に来てくれた。ベテランの職人さん。歪んだ引き戸を器用にはずして持っていく。昼前には元どおりにガラスがはまった引き戸を届けてくれた。

引き戸は玄関にすんなり収まった。鍵もそのまま使える。まるで手品を見ているようだった。フレームごと交換せざるを得ないと思っていたので心底ホッとした。

玄関の修復はあっけなく終わった。あとは車の傷と凹みだ。板金塗装の店を2軒まわり、見積もりの安いほうに頼んだ。

走行中に異音がすることに気がついた。カタカタという金属音。近くのディーラーで調べると、マフラーにつながる部品が壊れているらしい。

玄関の修復や車の修理、凹みの修復など、今回のアクシデントで計10万ほどの出費を余儀なくされた。10万ですべてが元どおりになるわけではない。衝突で出来た傷が玄関脇に残っているし、車の傷も完全には消えないだろう。

車が凶器と化すことを忘れないように痕跡は残しておくべきなのかもしれない。もちろん、車に狂気を吹き込むのは人間だ。操作を誤れば車は凶器に変わる。

高齢のドライバーが起こした死傷事故のニュースをよく目にするようになった。もはや他人ごとではない。一瞬の誤操作で車に狂気が宿ることを自ら体験してしまったのだから。

玄関前に車止めブロックを置くことにした